珠洲だより

                  2012年

2012/1/12 備前を訪れて

一人10トン単位というから置く場所の確保も大変。
シートがかけられたいくつもの山はそれぞれ作家さん
のもの。
 篠原が神戸で個展の間、私はいざ備前へ。 松屋で知り合った森大雅さんがお迎えから宿泊、案内までして下さった。彼はおじいちゃん亡き後、跡を継ぎ備前の若手世代の中でがんばっている一人。
 とっぷり日が落ち、伊部に着くとまず向かった所は酒屋さん?! 家から歩いて向かう間に電話で集まった陶芸家が一人、また一人。店先に備前焼が並べられた奥の土間の所でマイボトルを出してそれぞれ飲み始める。大御所だった陶芸家もかつてはこうして飲んでいたという。閉店はきっかり19時。お湯割り用のやかんをストーブにのせ、番をしているご主人と語り合うには短すぎた。なんだか不思議な時間軸が流れる場所だった。酒屋さんのちょっとバー。こんな場所が近くにあったら私も連れて行きたくなる空間だ。

農閑期に稲が育つ土を別の場所によけ、陶土として
使える土が出てくるまで掘り、採掘した後山土などを
その分補充して、よけておいた田の土を戻す。
 翌日伊部の町を歩く。10年前とほぼ変わらない。色がそんなにあるわけでもないのに、これだけの備前焼が無造作に並べられた中から何か探そうと思うと、かなりのエネルギーを使う。
 少々くたびれていたいたところで、駅前の牡蠣がいっぱい入ったお好み焼きを食べ元気を取り戻す。
 そして森さんが採土を預けている所に連れて行ってくれた。あれだけの備前焼を見た後、採掘している人が今ではただ一人と聞き驚く。原土から陶土を作っている人は、ほぼ澄川さんが掘った土ということになる。
  いい土が採れる所はほぼ採りつくしてしまい、新しい場所の交渉も3年越だという。田の土を使うことは知っていてもどこでも掘れるわけでは当然なく、地主さんの理解があり地域全体で備前焼を支えているともいえる。
  一回にに掘る単位は何百、何千トンだという。そして掘った後は水をはる田んぼなので平らでなければならないため、地ならし作業もかなり大変だと想像ができる。
 ではどこの田んぼの下にも陶土があるのか。そうではもちろんない。それは澄川さんの長年の勘で、この辺にはありそうという感覚だけだという。自分の勘を信じ、土地の交渉、採掘、地ならし、保管管理まですべて一人でされている澄川さんがとても大きく、男の強さを感じた。ただ、澄川さんの跡を継ぐ人はいないとのこと。
 個々が使う分だけ作っていた時代とは違い。ものがあふれている今の時代、もう少し個々が大事にしなければならないことがあるように思う。
 長い長い歴史の中で堆積した資源を私たちは使っているのだから。
 

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